箱とラジカセとぼく

思ったこととか思ったこととか書きます。くだらないことしか書いてないので気をつけて読んでください。記事に関する意見はTwitterでも受け付けてます。ID:@senedesumusu_

愛の価値の話

おはようございます。僕です。

自己肯定感の低い人が抱える矛盾の話です。

 

僕はツイッターに匿名質問サイト「マシュマロ」を設置しているのですが、そこにこんな質問が舞い込んできました。

 

 

これです。実はこの質問がきたのは一年以上前のことなんですが、僕は未だにこの質問に答えられずにいました。ずーっと考えこんでいたので。

ですが、いい加減この質問に答えなければならないと思い、記事を書き始めました。マシュマロには最大で140文字で答えられますが、確実に収まらないと思ったので記事にします。マジで考えてた。

 

なぜ「フラれること」が気持ちいいのか?

まず、「モブぼくが二次嫁にフラれること」の快感の元を辿っていきたい。その「気持ちよさ」は何なのか?というところを突き詰めていけば、これの答えに繋がっていくと思うので。

 

なぜ「フラれることが気持ちいい」という感覚になるのか?というところですが、僕が考えるに、根本にあるのは「自己肯定感の低さからくる自己否定と、それを証明する体験をすることで得られる安心」だと思います。

自己肯定感が低い人は人は自分より格上の存在であるという地盤を持っているため、自身が満たされることを疑問視し、不審がり、疑います。

「自分がこんなに幸せでいいのか?」
「何か裏があるんじゃないか?」
「自分が幸せな裏で、誰かが不幸を被っているのではないか?」という疑心が常につきまといます。

 

「好きな人にフラれる」という体験は一般にはショックな出来事だと思います。自分を否定されたような気分になり、願いが叶わなかったというショックで落ち込むと思いますが、自己肯定感が低い人は、むしろそれが「安心」に繋がります。

自己肯定感が低い人は「自分が誰かに受け入れられる」ということが耐えられなく、疑い、気持ち悪がります。だからこそ自身が否定されることが安心に繋がるのだと思っています。「自分が誰かに受け入れられるわけがない」という確信と、それを裏付ける体験をすることで安心しているのです。それが「フラれることが健康には悪いが気持ちいい」に繋がっているのではないかと思います。

自身が否定されること自体のショック、それを期待していて安心している気持ちよさの二つが合わさったものだと思います。本当はフラれた時点で、その人の目的は達成されているのです。自分の好きな気持ちと、それを否定されたい気持ちで矛盾しているようですが、感情の問題は論理性で片付くものではないので、「矛盾してますよねぇ!?」と牙を剥いているわけではありません。安心してください。

 

「傷の深さ」は「愛の深さ」の証明となり得るか?

さて、次に「気持ちいいよな」に対して返していた「傷の深さを愛の深さにしたいだけ。抱えた痛みで恋の強さを裏付けたいだけ」について考えていきたいと思います。

要するに、この会話の後者が言っていることは「それだけ悲しいってことは、それだけその人のことを好きだったっていうことなんだよ」というフラれた人を慰めるための言葉を逆手に取った返しだと思います。僕が思うにその慰めもどうかと思いますけど。それだけ好きだったから今泣いてる事実確認に過ぎないだろ。ふざけんなよ。もっと前向きにさせる言葉をよこさんかい。

 

僕は前の見出しで書いた通り、「気持ちよさの根源は自己肯定感の低さからくる自身の否定を求める欲求であり、フラれた時点で完結している」という考えです。

なので、僕が考えるに「傷の深さ」はその人にとって「愛の深さの証明」ではなく「自身の考えの肯定の証明」であり、愛情の深さとは関係ありません。前者の人は自身の愛情の深さを尊ぶべきものとは考えておりません。ただ自分を苦しめる存在です。自分がその考えを持つことを許されるべきものと考えておらず、ましてやそれを尊ぶことなど微塵も頭にないと思います。否定されることを望み、実際にフラれると「自分の思った通りだった」という安心を得ている。そんな人が愛情の深さを自身で確認したいとは思っていないと思います。それは自分の罪の重さを自分で直視しなければらならない拷問に等しい行為なので。

 

では、この「自己肯定感が低い」ということを抜きにして、「痛みの重さは愛情の重さと同義になるか?」ということを考えていこうと思います。

僕が思うに、愛情の深さは「失った痛み」にはなり得ないと思っています。
愛情があればあるほど別れる痛みは大きいものだと思いますが、だからといってそれが最終的な愛情の重さだったのか、といえばそうとは言えないと思います。

最終的な愛情の深さとは失った痛みによって実感されるものではなく、冷静に、俯瞰的に自身を振り返って「その人のために行った行動や振る舞い・思考」を考えることで実感し、評価を下すものだと思います。フラれた瞬間はそんなでもない、と思っていても後から悲しくなったり、フラれた瞬間に物凄く悲しいと思っていても後からケロっとしている人のことを考えると、個人の尺度はあれど、「痛みが人の愛情の重さの証明」にはなり得ないと思います。

失った痛みで証明されると思っているのは「明確にネガティブな刺激」によってしかそれを意識することが出来なかったからであり、自分の好きなものに対して雑な扱いをしていたことに無自覚だっただけだと思います。それで「痛みこそが愛情の証明」という人がいるのなら、それこそ独善であり、勝手に一人で踊ってればいいでしょう。
ただ自分の中のふんわりとした「大事なものリスト」に入れていた項目が一つ無くなって悲しんでいるだけに過ぎません。

 

なんか途中からめちゃくちゃ怨嗟を吐いているだけになってしまいましたが、僕の結論はそういうことです。「痛みは愛情の深さの証明」にはなりません。

 

 

自己肯定感の低い人を否定してはいけない

と、まあ散々言いましたが、自己肯定感の低い人を面と向かって「お前はこういうやつだ」ということを言ってはいけません。明確に言葉の暴力だから。僕がこうして書いているのも街中で一人でジタバタ暴れて、それが通行人に当たって怪我するレベルの迷惑かもしれないんですけど。

世の中には「蛙化現象」という現象があり、どういうものかというと「好きな人に振り向いてもらった瞬間に好意が冷める」というわけわかんねー現象です。

この根底には「自分なんかを好きになる人間は気持ちが悪い」という自己肯定感の低さからきているものであり、自身を否定されなかった人は、「自分を否定してくれなかった人」を否定します。アタックされたから振り向いた人からしたらムカつくこと必至でしょうが、そういうものらしいです。事故かよ。

ただ、そういう人はそういう人で苦しいものがあると思うので、本人には言わないようにしましょう。人には人の地獄があるように、人の痛みをわかってあげましょう。

 

僕は基本的に他の人のことがどうでもいいので「痛みをわかってあげることが出来る人」のモーションをトレースして生きています。人の痛みがわからない人は是非試してみてはいかがでしょうか?

 

 

 

 

 

おしまい