箱とラジカセとぼく

思ったこととか思ったこととか書きます。くだらないことしか書いてないので気をつけて読んでください。記事に関する意見はTwitterでも受け付けてます。ID:@senedesumusu_

察する話

おはようございます。僕です。

 

 

皆さんは「察せよ」と言われたことがあるでしょうか。僕は死ぬほどありますし、言われた数だけ「はあ?」と返してきました。

 

僕は対人コミニュケーション能力が著しく欠け、改善するよりも先にストレスがきて爆発してしまうので、今まで星の数ほど「察せよ」「はあ?」のやりとりを繰り返してきました。

 

どうしてそうなってしまうのかということを、この間ツイキャスでフォロワーの人たちと話したんですが、その中で僕の中の感情を上手く言語化できたのでついでにブログに書き残しておこうと思います。

 

 

「察する」ってなに?

そもそも、「察する」っていうのはどういうことなんでしょうか。国語辞典で調べてみました。

 

察する【さっ・する】

1物事の事情などを推し量ってそれと知る。推察する。

2相手の気持ちを推し量って同情する。思いやる。

3深く調べる。

 

なるほど。

普段使われている意味としては1ですね。「相手のことを考え、状況に合わせた判断をする」ということを略して「察する」というのでしょう。

 

でもそれってなんか、なんかこう、勝手じゃないですか?ちょっと自分勝手すぎません?待ってくれよ。

僕は普段から「察せよ」と言われて怒られていることといえば「アレとって」「あそこにある◯◯とって」と言われ、咄嗟にわからずオロオロしていると「察せよ」と言われていました。

 

 

「察せよ」って怒る方がおかしくない???

僕は「人に何かを頼まれたら必ず遂行しなければいけない」という強迫観念があるため、その責任を果たすため必死になるんですが、結局必死になるため人の話を全然覚えていないことが多々あり、そういうときはメモをとって何とかしているんです。

しかし、このように「すぐ終わる用事」はメモをとる必要すらないため、僕が必死になってアワアワしているだけで終わります。責任を負うことに恐怖を感じているのかもしれない。

 

でもそれで「察せよ」と言って怒られるの、ちょっと自分勝手だとは思いませんか。

そもそもすぐに終わるような用事を頼むということは、自分がちょっと頑張れば済むような用事ですよね。だというのに人に頼むということは、その「ちょっとした努力」を人に投げているわけじゃないですか。

良く言えば「リソース管理が出来ている」と言えますが、悪く言えば「人の時間・リソースを奪っている」ということですよね。ていうか、そもそも単純に人に物頼んでおいて「察せよ」というのはおかしくないですか?お前が下手に出るところだろ。

 

察する能力、というのも人によって限界があると思います。僕は自分のことに集中していたら周りが見えなくなるし、周囲の音も多少気にならなくなります。

例えば僕が仕事をしている最中「アレとって」と指を指されていたとしても、無の状態から急に「人に物を頼まれ責任を負う」というストレスが急にかかるわけじゃないですか。僕は周りが見えていないためその人のことなんか見てないし、何が必要なのかもわからないまま仕事を頼まれているんです。当然僕は混乱して「え?ちょっと待ってアレってなに?」と「そもそも何が必要なのか」という情報から聞き出そうとします。気の短い相手だったらこの時点で「もういいよ自分でとるから」とあたかもこっちが悪いかのような雰囲気を出して自分で物を取ります。

 

おかしくない?おかしいですよね?

何事も物事には順序があると思うんですけど、この場合僕が考える正しい順序とは、「まず『ちょっといい?』と聞いて僕を無から出す→『◯◯が欲しいんだけど、レターケースの上に置いてあるペン立てからとってくれない?』と頼む→僕が必要な物をとり、渡す→『ありがとう』と礼を言う→HAPPY END」です。

このように、正しく順序立てれば、僕は混乱せずに済み、頼まれた事も冷静にこなせる。相手も自分から遠かった物が労せずに手に入る。WIN-WINですよね。

 

それを略した結果僕は混乱していらんストレスがかかってお互い最悪な気分になるだけですよね。なんでそうなるんでしょう。答えは次の見出しです。

 

 

「察せよ」って怒る奴は自分が情報提供をサボってるだけ

これが僕なりの「答え」です。

そもそも「察する」という行為は「相手の事情を推し量ってそれと知る」わけですよね?

でも僕には「必要な情報」が与えられないまま「察せ」と言われました。これはもう八割くらい「自分の想像力」で補わないといけないということでしょう。現場で一目でわかる二割の情報から自分で想像して行動しなきゃいけないのって、なんというか人として間違ってませんか。僕だって必要な情報を与えられて欲しいであろう物を見て「これだろうな」と「察する」ことは出来ますが、全てを想像で補わなければならないのはもう「察する」とかじゃないです。現場に残された証拠のみで真実にたどり着く「推理」でしょ。

 

人に物を頼むときには当然人に対して敬う気持ち、「誠意」がないといけないわけですよね。それが頼み方なり、話し方なりに表れてくるわけじゃないですか。

それを「想像して動け」というのはあまりに誠意がなくないですか?自分が誠意を見せることを、自分が相手に対してのコミニュケーションをサボってることを「あいつは察しが悪い」と人のせいにするのはあまりにも人としておかしくないでしょうか。

 

要するに「(想像だけで)察せよ」と怒っている人は「自分が必要なものを出さずして自分の欲望を叶えようとしているサボり野郎」ということです。

 

 

女の子にモテない理由がわからない

急にYouTubeの美容系サプリのCMみたいな入りになってしまってすみません。

 

実際にツイキャスでフォロワーの人と話したコミニュケーションの話は上記のことではなく、これから書くことです。上記は今までの不満を書いていただけです。

 

僕はツイキャス「女の子とデートした際、女の子が『手、冷たくなっちゃった』と言ってきたのでカイロをあげたら怒られた」という話をしたとき、「お前が悪い」「察しろ」と怒られたので「はあ?」と言ってから上記のような反論をしました。

僕は「手が冷たくなった」という事象を解決出来るじゃないですか。長い間手を温められるし、何なら首筋にあてれば全身が暖かくなることも出来るわけで、僕なりの正解が「カイロを渡す」だったんですけど、本当の正解は「手をつないであげる」らしいです。

 

は???手冷たくなって何で手繋ぐの???

僕は自分の手が相手を温める効果はさほどないと思うし、だったらさっさと「手をつなぎたい」と言えばいいじゃないですか。

結局そういうので怒るってことは自分の望んでる世界と現実にギャップがあって、それを認められないだけなんですよ。僕が仮に無知なせいでそうなったという見解が提示されたとしても、相手が「僕が無知だった」ということに寛容になればいいだけの話じゃないですか?相手は「手が冷たくなっちゃった」ということを言っただけですし、何ら自分の辱めとなるような発言はないじゃないですか。だったら別に巻き返せるチャンスはあるはずですし、無知な僕に寛容になれば済む話じゃないですか。

それで怒るというのは結局のところ「自分が望みどおりの展開にならなかったから不貞腐れている」というだけの話なんですよ。そんなの駄々っ子と同じじゃないですか。「世界はいつだって自分の思い通りにはならない」なんてポケモンのOPでみんな知ってるはずじゃないですか。それに無自覚なまま怒っているんだとしたら、僕じゃなく相手の彼女を心配すべきではないですか?そのまま他のコミュニティに行って無言で壁を作られたらそれこそ可哀想です。

 

 

サボらないコミニュケーションをとろう!

最後に、僕が言いたいのは「サボらないコミニュケーションを心がけてほしい」ということです。

 

僕は人に対してキチンと誠意とか責任を果たさないといけないと思っているので、人に頼まれたことに対しては真摯に対応したいと思ってるし、作品感想を書くときも自分で何回も見返して自分の言葉を綴るようにしています。

それをサボって人と雑に過ごしている人は、人からも雑に使われることになりますし人からの信用も無くなっていくと思っています。僕はそんな評価を受けたくないし、人から頼まれたものはちゃんと向き合わないといけないと失礼だと思っているんですよ。人生のツケというのは最も苦しいときに回ってくるらしいですからね。

「きちんと必要な情報を相手に伝える」「頼み事をする相手には敬意を持って接する」「頼んだらお礼を言う」ということが出来てない人は無自覚で人を舐めてるヤバイやつです。出直してくれ。

 

人に対して「言わなくてもわかるだろ」というのが許されるのは過去に何度も言って聞かせたことがある人だけです。そういう人は「前にも言っただろ!察してくれよ!」って言う権利がある。

 

 

 

みんなも自分と相手に敬意を持って接しよう!

 

 

 

おわり

自制の話

オタクとして自制すべきところはしないとなって話です。

 

 

おはようございます。僕です。

 

最近、Vtuberもたくさん増えてきて面白くなっていますね。いろんな個性を持った方々が頑張って動画を投稿したり生配信をしていたりして、日々界隈が賑わってきているのを感じます。

 

それで、僕もあるVtuberの方にハマって、ある苦悩をしたのでちょっと考えてみました。

 

 

発端と僕の変化

僕はとあるVtuberの方にハマり、いろいろと調べているうちに「その人のファンが集う交流所」みたいなディスコードサーバーを発見し、早速入ってみました。

 

中にはそのVtuberのファンの人しかいないし、同じような人間しかいなかったので安心していました。

特徴的なのは、そのVtuber本人が降臨してファンと直接交流出来たり、要望を直接聞けたりすることで、かなり近い距離感で接することが出来ました。

本来であったらVtuberとかTwitterでリプライ返ってきたらスクショとってふぁぼRTした上で「やっぴ〜〜〜〜〜〜!!!!!」って気分になるもんですけど、返信率もかなり高く、「会いに行けるアイドル」って感じで初期のAKBみたいだなって思いました。

 

ディスコードにはVCもあり、Vtuberの方本人がやってきてマジで直接喋ることも可能でした。

さながら初めて握手会にきたオタクのように「どうしよ〜〜〜〜!!」とあわあわしていたのですが、聞いてくるうちに段々と慣れていき、ファンの方達と一緒にディスコードを楽しむようになりました。

 

それで、僕もインターネット芸人らしく常にウケを狙っていろいろとコメントを残してきました。Vtuberの方にもウケてもらったこともあり、めちゃくちゃ満足でした。

そこから僕は段々そのVtuberの方に認知してもらえるようになり、名指しでチャットを打たれたり、「配達員さん結構好きですよ」みたいなこと言われたりして「どっひゃ〜〜〜」とひっくり返っていたりしたのですが、そこから無自覚に僕の心境が変化してきました。

 

最初は「もっとウケるぞ〜〜〜!」と頑張って笑いをとろうと思っていたんですが、僕はチョロいオタクなので「結構好きですよ」という言葉を脳裏に刻まれ、「もっと好かれてェ!」と思うようになっていました。

しかしチョロいと同時に良識あるオタクでありたい僕はそういう思いを自覚した瞬間にそのVtuberの方の動画もコンテンツも見ないようにしました。見ると確実に「ガチ恋勢」として厄介なオタクになってしまうということをインターネットで学んでいたからです。

 

「このままだと『一人の人間として好かれたい』という思いが暴走して何をするかわからない」という恐怖が僕を支配していました。

僕はオタクとして推しにダセェことはしたくないし、インターネットは「人のふり見て我がふり直せ」が基本なので、僕はVtuberの方の声を聞くのも自重するようになりました。

 

そういう思いがあった頃、そのVtuberの方のディスコードも何故か過疎っていることが多くなったので、思い切って抜けることにしました。

そもそも、そんな「好かれたい」「でもそんなことを考えたらダメだ」という不安定な精神状態のオタクがファンたちと一緒の空間にいたら確実に「好かれたい」に天秤が偏ります。ファンが集う場所で「同担拒否」みたいなことし始めたら終わりだと思うし、そういうことを考えてしまう時点で「僕がいてはいけない場所なんだ」と思いました。

 

オタクはどう腹を切るべきか

そういうことでしばらくは距離を置いていた僕ですが、最近は少しずつ声を聞くようにしています。なんかリハビリみたいだなと思っていたんですが、そうではなく、「本当に大丈夫かな?」と自分をテストするために必要なんだなと気付きました。

僕が声を聞いても昔のように純粋に喜べるか自分をテストするようになってる時点でかなり終わってる感がありますね。僕はどうしてこうなってしまったんだろう。

 

でもオタクとして自分のけじめをつけられたのは大きな進歩だと思っています。僕なりの切腹です。

仮にもファンとVtuberの方の間にはマリアナ海溝より深い溝があり、バビロン遺跡より高く長い壁があるというのに、その中の一人である僕が「自分だけ好かれたい」と思うなど、愚の骨頂の最たるものですね。傍目から見てたら「死ねばいいのに」くらい思ってしまう。そういった思いはすべからく自重しなければならない。

 

実際のところ、Vtuberの方は個人的な僕をどうとも思っていないと思いますし、僕もそれを期待などしていません。前はちょっぴりあったかなと思いますけど、自制の結果「あるわけないな」という境地に達することが出来ました。切腹してよかった〜〜〜。

 

僕は「コンテンツから離れる」ということで自制を図りましたが、これが正しいことだったのかはよくわかりません。

人によって解決する方法はそれぞれあると思いますが、コミュ障で「人から離れる」という対処としかとってこなかった僕はこうするしかなかったんですが、他にベストな方法というものはあったんでしょうか。僕にはこれしか思いつきませんでした。

 

オタクは自分の心に気を配ってほしい

思ったんですけど、今回僕がこうして最悪の事態を予測して自制出来たのは、普段からインターネットにどっぷりなこともありますけど「自分の心境の変化を感じ取れたから」っていうのもあると思うんですよね。

 

最近って若いオタクの人や、まともに人と交流してこなかった結構な歳いってるはずのオタクの人が日夜インターネットで暴れていて辛いですが、彼らは意外と「自分の感情が今どうなっているか」を客観的に見られていないんです。

「自分がどういう気持ちでこれを言っているか」に無自覚になると、人間は横暴になり、自分が客観的に見てどんな姿をしているかわからないまま「自分が正義だ」と信じて疑わなくなります。醜すぎる……

 

ここで僕が言いたいのは、「僕を見習え!」みたいなことではなく「みんなを見習った結果僕はこの行動をとった」という例の一つということです。

先にも書きましたが、インターネットは基本的に「人のふり見て我がふり直せ」なので、Twitterで炎上している人をよく観察し、そのリプライをよく見て「考えの多様性」を脳に刻み込み、何か書き込む前に一瞬指を止めることが必要だと思うんですよね。僕が普段から女子中高生を殺したがってるのはこの際見逃してください。炎上覚悟の殺意です。

 

せめてこれを読んでいる方々に伝えたいのは、「自分の好きの感情が歪んできたら、オタクとして終わりを迎えるサインなので緊急回避してくれ」ということです。

最初に好きになったのはどこか、なんで好きになったのか、今はどんな「好き」なのかを暇なときでいいので考えてください。今の自分がどうなっているのか知ることが出来るかもしれません。

 

「良いオタク」を目指して頑張りましょう。

 

 

 

 

おわり

言い訳の話

「言い訳とは一体なんだろうな」という話。

 

 

 おはようございます。僕です。

 皆さんは人に怒られてるときに「言い訳するな!」と言われたことはないでしょうか。

 僕は昔からよく言われては「納得いかない」と憤慨していたんですが、真面目に「なんでそう言われるのか」と考えてみようと思います。

 

「言い訳」ってなんだ

 こちらのブログは久しぶりの更新になりますが、恒例の「辞書を引いて正しい意味を調べてみる」をやっていこうと思います。

 

1.自分の言動を正当化するために事情を説明すること。また、その説明。弁解。「〜は聞きたくない」

2.筋道を立てて物事を説明すること。解説。

3.過失、失敗などを詫びること。謝罪。

4.言葉を使い分けること。言分。

 

 いや、めっちゃめちゃ多いな。日本語の複雑さを視覚化された気分ですね。日本人がビビる密度を一つの言語に詰めるな。もったいない精神か。

 

 今回僕が言及していくのは1の内容です。

 

自分の思う「言い訳」の意味

 多分他の人は1の正しい意味での「言い訳」という言葉を使っているんでしょうが、僕は普段その言葉を使われている状況に納得いってませんでした。

 僕にとっては「なぜそうなったのか」という事実を話しているつもりが周りにとっては「言い訳」に見えているんだと思います。

 

 実際、普段僕は責任逃れをしようとしているわけではないつもりだし、「なんでそうなったのか」と問われて「僕が◯◯だったと思ったからです」と言ったら「言い訳すんな!」と言われるんですよね。僕はこれに理不尽さを感じています。聞かれたから答えたんやろがい。

 僕は人と同じような思考パターンを持つことが出来なかった人間なので、「いや、聞かれたから答えるんじゃなくてそこで謝ってほしいんだよ」みたいなこと言われても疑問符しか頭に浮かびません。なんなんだ。普通の人ってそういう行動パターンが身に付いてて僕が世間から外れてるだけなの?

 

 僕にとって言い訳とは「事実(本当に現実に起こったこと・そのときの自分の行動や感情)をねじ曲げ、都合良く見せている」だと思っているので、本来の意味合いである「自分の言動の正当化(道理に適っているように見せること)」とは少し違いますね。

 

 

「言い返さない」という選択をとってみる

 現在、僕はもう出来るだけ言い訳(自分の言い分)を言わないようにしています。

 どんなに自分の方が正しくとも、言い訳として捉えられるのなら諦めて黙ってるようにして、相手の満足がいくまでいろいろ言われるようにしています。少なくとも「また言い訳して!」みたいな追加説教はこないでしょう。

 これからちょっと前の話をします。

 

 あるとき、「時間を空けて事実を言ったら納得してもらえるかも」と思ってしまい、その場はただ言われて「はい、はい」と言って後日その話が出た時に「あれは実は……」と言ってみたら、「また言い訳してるな?」と言われたので完全に絶望してしまいました。脳裏に「死」の文字が躍っている。辛すぎて帰り道完全に思考が止まっていて、「気がついたら家に帰っていた」という状態になった。ちくしょう!なんだってこんな目にあわなきゃいけないんだ!

 なのでやっぱり諦めて黙っていたら、今度は「自分は悪くない(と思う)のに……」という思いが募り、他の悩みと混合して「とにかく淀んだ気分」が生成され「なんとなく辛い」という漠然とした辛さに襲われるようになりました。

 結局、僕はその状況で何をしたのか。

 

 そう、「愚痴」と「考察」です。

 インターネットで感情をまず吐き出し、その上で冷静になって「なぜ自分はこんな感情になっているのか」を考える。この行動をすることによって「自分ではない第三者の事柄」みたいに思えてきてうまく現実逃避できます。僕は今までこの方法で様々な苦痛を緩和してきました。

 さらに、この方法をとることによって今後の創作についてのヒントが得られます。僕は人の気持ちがよくわからないので、自分が体験してその感情を分析して理解出来ないと心理描写が使えないんです。僕が今まで書いてきたものは全部僕の体験と考察の賜物なんです。そう考えるとこういう絶望を味わうのも悪くないですね。嘘だ。悪いわ。出来るなら毎日ハッピーに暮らしたいわ。アホ。

 

思想は色々と濾過されて、最終的に「腑に落ちないな」という感情が残りました。ダメじゃん。

 

 

自分を疑うところから始めたらいいのでは?

 多分読んでる人が思っているのは「本当にお前は悪くないの?」というところです。

僕は会社では普通にミスとかヘマするし、そこが印象に響いてるのもあると思うんですが、大体「言い訳するな!」と言われるときは「自分にとって事実だと思っていることを説明したとき」「頼まれたことをやっていないと怒る上司が頼んだ相手はそもそも僕じゃないけど、僕に頼んだと思い込んで怒ってくる」みたいなやつがほとんどなんですよね。それで納得いかなかったら僕が悪いんでしょうか。誰か助けてくれ。

 

 ある日僕は怒られた内容を反芻しながら帰っていたら、「もしかしたら本当に僕が悪いのでは?」という発想が出てきた。

「だとするなら怒っているのも納得いくし、そもそも僕がミスしなければ矛先が僕にくることはないんじゃないか?よーし!これからはミスのないように頑張るぞ!」と自分の感情に蓋をしてその日は乗り切れましたが、翌日普通にミスして「無理や」と思い昨日した感情の蓋は簡単に吹っ飛びました。僕は感情の振れ幅がでかいので、その日は「結局自分で決めたことすら出来ない……僕は……」と落ち込んでいました。死にたい。

 その日やったことは結局、「ミスして怒られたことで自分が納得したフリをしたことを自覚させられ、気分も最悪になった」ということだけでした。クソ。

 

 

自分が「言い訳」をした日

思ったんですが、「自分が納得いくかどうか」と「責任の所在と実際の問題」って全くの別問題なんですよね。自分の「納得いかない」という感情やその論理は「現実に起こっていること」とは別の問題ということです。

 

 ある日、僕は会社で「倉庫にとってきてほしいものがあって、上司からそれを自分に探してとってきてほしいと頼まれたときに、自分が見落としていて『ありませんでした』と伝え、『◯◯のところにあるはずだろ?』と言われてもう一度探しに行ったらその場所にあって、『ありました』となって注意された」というシチュエーションになりました。

 そのとき自分は「頑張って探してたのになぁ」と不服になり、「全部探したんですがねぇ」と言ってしまいました。このとき、自分でも「あ、今、僕〝言い訳〟したな」と思いました。そんで案の定「全部探してねえじゃねーか!言い訳すんな!」と普通に怒られました。この件に関してはマジでごめんなさい。僕が悪いです。

 

 ここで考えたのが「自分の『頑張って探したのに』という不満」と「見落としていたという現実問題」は全く無関係というところです。

前の記事でも言いましたが、「自身の頑張り」と「現実に出る結果」は別の話です。

僕も所詮「頑張ったのだからそこも全体の評価に加えてほしい」と不満を漏らす子供だったということですね。自戒していきたいです。

 

senedesumusu.hatenablog.com

 

 つまり「僕の考える言い訳」とは、頑張って探していようがなんだろうが「見落としていた」ということは事実であり、それを叱られているのに、自分の感情にねじ曲げられて事実ではないのに出てきた「全部探した」という言葉を発したことでそれが「言い訳」となる、ということでしょうか。

 僕は今回これで納得いきましたが、普段から言われているような「言い訳すんな!」にはまだ納得いっていないので、多分今後もこういったことを考える機会はあると思います。

 

 

結局「言い訳」とはなんだったのか

 まとめますと、僕の言い訳という言葉の解釈は「自分の感情で事実をねじ曲げ、嘘でダメージを軽くしようとする姑息な真似」です。無に責任を押し付けているのと同じだと思います。

 これからそういった「人に怒られる言い訳」を回避するためには、まず自分の感情は置いといて、現実問題何が起こっていて、責任は誰にあるのかということを考えます。そしてその場は黙り、自分の感情と相手の説教が収まるのを待ってインターネットに愚痴と考察を書きます。これでその場で言い返すことはなくなり、完璧に「言い訳すんな!」と怒られることはなくなりますね。これで現実逃避ではなく、「現実に向き合った上で今後自分が出来る改善策を探す」ということが出来ます。上司の勘違いで怒られてたら諦めも「あーあ損した」レベルまで心を落ちつけられるでしょう。処世術とは小学校の頃道徳の授業で習った礼儀作法とは少し違うんですね。

 結局、「納得いかない」という感情を沈められないからいつまで経っても納得がいかないんでしょう。冷静に考える時間を自分に与えることで自分を納得させられるものだと僕は思っています。

 

 

 

 そういうわけで、僕はこれからもTwitterで不平不満を喚き散らしていきます。

 Twitterのフォロワーの皆さん、これからもよろしくお願いします。