箱とラジカセとぼく

思ったこととか思ったこととか書きます。くだらないことしか書いてないので気をつけて読んでください。記事に関する意見はTwitterでも受け付けてます。ID:@senedesumusu_

言い訳の話

「言い訳とは一体なんだろうな」という話。

 

 

 おはようございます。僕です。

 皆さんは人に怒られてるときに「言い訳するな!」と言われたことはないでしょうか。

 僕は昔からよく言われては「納得いかない」と憤慨していたんですが、真面目に「なんでそう言われるのか」と考えてみようと思います。

 

「言い訳」ってなんだ

 こちらのブログは久しぶりの更新になりますが、恒例の「辞書を引いて正しい意味を調べてみる」をやっていこうと思います。

 

1.自分の言動を正当化するために事情を説明すること。また、その説明。弁解。「〜は聞きたくない」

2.筋道を立てて物事を説明すること。解説。

3.過失、失敗などを詫びること。謝罪。

4.言葉を使い分けること。言分。

 

 いや、めっちゃめちゃ多いな。日本語の複雑さを視覚化された気分ですね。日本人がビビる密度を一つの言語に詰めるな。もったいない精神か。

 

 今回僕が言及していくのは1の内容です。

 

自分の思う「言い訳」の意味

 多分他の人は1の正しい意味での「言い訳」という言葉を使っているんでしょうが、僕は普段その言葉を使われている状況に納得いってませんでした。

 僕にとっては「なぜそうなったのか」という事実を話しているつもりが周りにとっては「言い訳」に見えているんだと思います。

 

 実際、普段僕は責任逃れをしようとしているわけではないつもりだし、「なんでそうなったのか」と問われて「僕が◯◯だったと思ったからです」と言ったら「言い訳すんな!」と言われるんですよね。僕はこれに理不尽さを感じています。聞かれたから答えたんやろがい。

 僕は人と同じような思考パターンを持つことが出来なかった人間なので、「いや、聞かれたから答えるんじゃなくてそこで謝ってほしいんだよ」みたいなこと言われても疑問符しか頭に浮かびません。なんなんだ。普通の人ってそういう行動パターンが身に付いてて僕が世間から外れてるだけなの?

 

 僕にとって言い訳とは「事実(本当に現実に起こったこと・そのときの自分の行動や感情)をねじ曲げ、都合良く見せている」だと思っているので、本来の意味合いである「自分の言動の正当化(道理に適っているように見せること)」とは少し違いますね。

 

 

「言い返さない」という選択をとってみる

 現在、僕はもう出来るだけ言い訳(自分の言い分)を言わないようにしています。

 どんなに自分の方が正しくとも、言い訳として捉えられるのなら諦めて黙ってるようにして、相手の満足がいくまでいろいろ言われるようにしています。少なくとも「また言い訳して!」みたいな追加説教はこないでしょう。

 これからちょっと前の話をします。

 

 あるとき、「時間を空けて事実を言ったら納得してもらえるかも」と思ってしまい、その場はただ言われて「はい、はい」と言って後日その話が出た時に「あれは実は……」と言ってみたら、「また言い訳してるな?」と言われたので完全に絶望してしまいました。脳裏に「死」の文字が躍っている。辛すぎて帰り道完全に思考が止まっていて、「気がついたら家に帰っていた」という状態になった。ちくしょう!なんだってこんな目にあわなきゃいけないんだ!

 なのでやっぱり諦めて黙っていたら、今度は「自分は悪くない(と思う)のに……」という思いが募り、他の悩みと混合して「とにかく淀んだ気分」が生成され「なんとなく辛い」という漠然とした辛さに襲われるようになりました。

 結局、僕はその状況で何をしたのか。

 

 そう、「愚痴」と「考察」です。

 インターネットで感情をまず吐き出し、その上で冷静になって「なぜ自分はこんな感情になっているのか」を考える。この行動をすることによって「自分ではない第三者の事柄」みたいに思えてきてうまく現実逃避できます。僕は今までこの方法で様々な苦痛を緩和してきました。

 さらに、この方法をとることによって今後の創作についてのヒントが得られます。僕は人の気持ちがよくわからないので、自分が体験してその感情を分析して理解出来ないと心理描写が使えないんです。僕が今まで書いてきたものは全部僕の体験と考察の賜物なんです。そう考えるとこういう絶望を味わうのも悪くないですね。嘘だ。悪いわ。出来るなら毎日ハッピーに暮らしたいわ。アホ。

 

思想は色々と濾過されて、最終的に「腑に落ちないな」という感情が残りました。ダメじゃん。

 

 

自分を疑うところから始めたらいいのでは?

 多分読んでる人が思っているのは「本当にお前は悪くないの?」というところです。

僕は会社では普通にミスとかヘマするし、そこが印象に響いてるのもあると思うんですが、大体「言い訳するな!」と言われるときは「自分にとって事実だと思っていることを説明したとき」「頼まれたことをやっていないと怒る上司が頼んだ相手はそもそも僕じゃないけど、僕に頼んだと思い込んで怒ってくる」みたいなやつがほとんどなんですよね。それで納得いかなかったら僕が悪いんでしょうか。誰か助けてくれ。

 

 ある日僕は怒られた内容を反芻しながら帰っていたら、「もしかしたら本当に僕が悪いのでは?」という発想が出てきた。

「だとするなら怒っているのも納得いくし、そもそも僕がミスしなければ矛先が僕にくることはないんじゃないか?よーし!これからはミスのないように頑張るぞ!」と自分の感情に蓋をしてその日は乗り切れましたが、翌日普通にミスして「無理や」と思い昨日した感情の蓋は簡単に吹っ飛びました。僕は感情の振れ幅がでかいので、その日は「結局自分で決めたことすら出来ない……僕は……」と落ち込んでいました。死にたい。

 その日やったことは結局、「ミスして怒られたことで自分が納得したフリをしたことを自覚させられ、気分も最悪になった」ということだけでした。クソ。

 

 

自分が「言い訳」をした日

思ったんですが、「自分が納得いくかどうか」と「責任の所在と実際の問題」って全くの別問題なんですよね。自分の「納得いかない」という感情やその論理は「現実に起こっていること」とは別の問題ということです。

 

 ある日、僕は会社で「倉庫にとってきてほしいものがあって、上司からそれを自分に探してとってきてほしいと頼まれたときに、自分が見落としていて『ありませんでした』と伝え、『◯◯のところにあるはずだろ?』と言われてもう一度探しに行ったらその場所にあって、『ありました』となって注意された」というシチュエーションになりました。

 そのとき自分は「頑張って探してたのになぁ」と不服になり、「全部探したんですがねぇ」と言ってしまいました。このとき、自分でも「あ、今、僕〝言い訳〟したな」と思いました。そんで案の定「全部探してねえじゃねーか!言い訳すんな!」と普通に怒られました。この件に関してはマジでごめんなさい。僕が悪いです。

 

 ここで考えたのが「自分の『頑張って探したのに』という不満」と「見落としていたという現実問題」は全く無関係というところです。

前の記事でも言いましたが、「自身の頑張り」と「現実に出る結果」は別の話です。

僕も所詮「頑張ったのだからそこも全体の評価に加えてほしい」と不満を漏らす子供だったということですね。自戒していきたいです。

 

senedesumusu.hatenablog.com

 

 つまり「僕の考える言い訳」とは、頑張って探していようがなんだろうが「見落としていた」ということは事実であり、それを叱られているのに、自分の感情にねじ曲げられて事実ではないのに出てきた「全部探した」という言葉を発したことでそれが「言い訳」となる、ということでしょうか。

 僕は今回これで納得いきましたが、普段から言われているような「言い訳すんな!」にはまだ納得いっていないので、多分今後もこういったことを考える機会はあると思います。

 

 

結局「言い訳」とはなんだったのか

 まとめますと、僕の言い訳という言葉の解釈は「自分の感情で事実をねじ曲げ、嘘でダメージを軽くしようとする姑息な真似」です。無に責任を押し付けているのと同じだと思います。

 これからそういった「人に怒られる言い訳」を回避するためには、まず自分の感情は置いといて、現実問題何が起こっていて、責任は誰にあるのかということを考えます。そしてその場は黙り、自分の感情と相手の説教が収まるのを待ってインターネットに愚痴と考察を書きます。これでその場で言い返すことはなくなり、完璧に「言い訳すんな!」と怒られることはなくなりますね。これで現実逃避ではなく、「現実に向き合った上で今後自分が出来る改善策を探す」ということが出来ます。上司の勘違いで怒られてたら諦めも「あーあ損した」レベルまで心を落ちつけられるでしょう。処世術とは小学校の頃道徳の授業で習った礼儀作法とは少し違うんですね。

 結局、「納得いかない」という感情を沈められないからいつまで経っても納得がいかないんでしょう。冷静に考える時間を自分に与えることで自分を納得させられるものだと僕は思っています。

 

 

 

 そういうわけで、僕はこれからもTwitterで不平不満を喚き散らしていきます。

 Twitterのフォロワーの皆さん、これからもよろしくお願いします。