箱とラジカセとぼく

思ったこととか思ったこととか書きます。くだらないことしか書いてないので気をつけて読んでください。記事に関する意見はTwitterでも受け付けてます。ID:@senedesumusu_

偽善の話

「善」ってなんだよって話。

 

おはようございます。僕です。

 

最近九州のほうの地震ひどいですよね。

東北大震災のときも東京も甚大な被害を受けましたし、地震が怖いから結構心配してるんですよ。

 

それで、僕の常駐してるTwitterでよく議論が起こってるのが「不謹慎だ」とかいう人の話。

 

不謹慎ってどういう意味かなって思って調べてみたら「慎みや考慮、思慮分別の欠如などを指していう感情的形容詞。軽薄、不真面目、無神経などと同義」って書いてありました。なんか怖い。

 

それで思ったんですよ。「不謹慎」って言ってる人ってどういう気持ちなのかなって。

 

注意するときってどんな気持ちなの?

僕は人を注意するってことをあまりしないっていうか、人に対して怒るっていうことをあんまりしないんですよ。怒りという丘が低すぎるのか、通り越して悲しくなってきちゃうんですよね。バカな人たちを見てると。

 

それで、不謹慎って言ってる人ってどんな気持ちなんだろうって考えてみたんです。

きっと、「こういうことは間違ってる!私が正してあげないと!」っていう善意なのかなって思ったんですよ。

そういった不謹慎だと思われることを正してあげることこそが正義であり、それを排除することで世の中は美しくなっていくと考えてるんでしょう。

なんか児童ポルノを取り締まる政治観に似てますね。

 

でも本当にそれで世の中が綺麗になるんでしょうか。

その「不謹慎」なことをしている人は本当に正されていくんでしょうか。

ていうかそれ本当に不謹慎なんでしょうか。

 

お前のやっていることは何なんだ

そりゃ確かに「地震おもしれーwww」とか「何だよ、◯人しか死んでねーのかよ。つまんねーな」って言ってる「釣りにしても吐き気を催すな」と思うようなゲロクソアカウントには誰だって怒りますよ。僕だってムカつきますよ。「お前は何なんだよ」って言いたくなりますよ。スパブロしますよ。

 

でもなにかにつけて「不謹慎だ」「不謹慎だ」って叫ぶ人、お前も何様のつもりなんだって思うんですよね。何の代表なんだよ。

 

それでTwitter地震のときに「不謹慎だ!」って言ってる人のリプライ欄を見てみたら、「何で不謹慎なの?」って質問してる人がいました。

そしたらその人、「九州の人たちはきっとこのツイートを見て不快に思っている!不謹慎だろ!」って言ってました。

 

お前はなにを言ってるんだ。

 

そもそもそんな被害状況の中悠々とTwitter見て不快になってるなら僕も心配なんかせんわ。募金返せよってレベルだわ。

 

要するに、「人の気持ちに立って考える」という能力が欠如しているんですよ。

この人のほうがよっぽど不謹慎じゃん。軽薄なんだよ。

ていうかタイムライン見てみたらお前ずーっとTwitterやってんじゃねぇか。

お前は被災地に何の支援をしてるつもりなんだよ。

 

普通に考えればわかることなのに、何でこういうことがわからないんだろうって考えてみましたが、よくわかりませんでした。ていうかわかりたくもないな。

 

「やってあげる」という言葉

本題の「偽善」について入っていこうと思います。

九州の地震の件もそうなんですけど、「何か力になってあげたい」って意識は素晴らしいと思います。

辛く苦しい目にあっている人たちのことを思うと、どうしようもなく悲しくなってきて、自分がどうにかしてあげたい。って気持ちは素晴らしいです。

 

東北大震災のときも、様々な救援を日本全国の人々で行って現在着々と復興が進んでるの、本当に感動するし「人間ってこんなにあったかい生き物だったんだ」って思ったんです。

 

でも、そういうとき起こるのが「知識のない人たちの闇雲な救援」です。

救援物資をごちゃ混ぜに一つに詰めて送って、現地のボランティアの人を余計苦しめたり、「救援物資届けてくるぜ!」と言って数人分しかない物資持って車飛ばして大きな物資を運ぶトラックの道を混ませたり、「ありがた迷惑」ってやつです。

 

そういう現状のツイートの反応を検索してみたら出るわ出るわ、「なんで!?こっちはわざわざ救援物資届けてるんだよ?!何が悪いの!?」とか「そういう被災した人たちを助けてあげたいって思ってるのに!」とかそういうツイート。

 

「わざわざ」ってなに?苦労割いてあげたのにって?

「助けてあげたい」ってなに?どこから目線?

 

相田みつをが書いた詩にこういうのがあるんです。

「人の為と書いて、偽りと読むんだねぇ」

そういうことです。

 

「偽善者」と呼ぶ人たちの立場ってなに?

よく「偽善だ!」って言って批判する人いますよね。

まあ普段から不真面目で人のこと屁とも思ってない人が急にいい人ぶりだすとそう言いたくなる気持ちもよくわかります。

 

でも、地震の被害とかに対して自分の私財をなげうって募金してる芸能人とかに対して「偽善者!売名!」って言う人たち、一体どの立場から言ってるんでしょう。

 

その偽善者と呼ばれた人たちのおかげで地が復興する。助けになる。幸せになってる。

それは偽善と呼ぶにふさわしいのかなって思うわけなんです。

 

むしろ偽善者呼ばわりした人たちって何様なんでしょう。

人を偽善者呼ばわりしてる時点で確実に善人ではないですよね。だってその人たちは人を偽善者呼ばわりしている間なにもしてないし、偽善者と呼んだ人たちは地の復興に協力してる。

どっちが偽善者かわかりゃしませんね。

偽善者呼ばわりしてる人の気持ちなんか知りたくもないですし、弁明なんかも聞きたくないですね。

 

テレビで「お前のとこの芸能人の◯◯、募金してないじゃないか!どういうことだ!」って事務所に連絡がくるっていうのを見ました。

どうやら「募金してる」と公表していない芸能人をピックアップし、その人物を批判するために電話をかけてるみたいですね。

 

バカじゃねぇの。

お前は何なんだ?誰なんだ?お前が神か?

 

正直そんなことしてる暇があんならYahooで「3.11」って検索して募金してろって感じですね。

その取材を受けていた芸能事務所の関係者も「募金を公表してないだけで募金している人だっています。やめてください」って言ってました。

 

静かに募金して復興に役立ててる人、募金を公表して復興に役立てている人。

誰もが「俺募金しました!」って言うわけじゃないんです。

こんなの小学生でも冷静な顔で答えられることですよね。

 

 

「何かしなきゃいけない」っていう強迫観念

上にも書きましたけど、「お前のとこの芸能人の◯◯、募金してないじゃないか!どういうことだ!」って電話かけてくる人、何に突き動かされてそんな電話かけたのかな。

誰かがひどいめにあってたらそりゃ人間として助けなきゃって道徳はあるけど、それを「必ずしなきゃいけない」という「義務」になってしまったら、それはもう「道徳」ではないんですよ。「徳」という意識がゼロなんですから。

 

「助けたい」という気持ちと「助けなきゃいけない」って気持ちはイコールじゃないんです。そこを履き違えたままの人はこういう電話をかけてしまいます。

自分が一体何をしているのかを全く考慮しないまま。

こういう人こそが本物のバカです。

本物のバカが出来ないのは数学でも英語でもなく「道徳」です。

 

 

「善意」を全面に押す人

いいことをしたいって思うこととか、実行することって大切だし素晴らしいことだと思います。

でも、「俺この震災でこんなに募金した!」「俺はこの前ボランティア行った!」って人に嬉々として語って聞かせる人は自信を持って「いい人じゃない」と言い切れます。

そういう人に限って普段困っている人をスルーします。

 

僕が小学生の頃いじめられてた時、誰も助けてくれなかったし、むしろみんな楽しんでた。

僕が中学生の頃渋谷の裏通りでヤンキーに絡まれてカツアゲされてたとき、誰もが目線を下に向けていた。

 

人間ってそういう生き物なんです。

大事なのは「自分の人生に大きく関わってくるかどうか」なんです。

いじめを助けようとすれば自分がいじめられるかもしれない。

ヤンキーから助けようとすれば自分がボコボコにされるかもしれない。

現実なんてそんなもんなんです。

 

上に書いた人は「自分をいい人に見せたい」という《自分の人生に大きく関わっていくこと》のために善行を行ったのでしょう。

こういった気持ちを持ってしまった時点でこの善行は偽善に堕ちてしまうんです。

「本当に人を助けたい」と思ったかどうかなんですよ。ルター精神なんですよ。

 

 

「偽善」とは結局なんなのか

とりあえずWikiで調べてみました。

「偽善とは、善良であると偽ることをいう。また、これを行う者は偽善者と呼ばれる。外面的には善い行為に見えても、それが本心や良心からではなく、虚栄心や利己心などから行われている事を指している」

俺が想像してたものとドンピシャでちょっと困惑しました。

 

要するに、「善」って反射的なものなんですよ。

びっくりするだとか、美味いもん食って「美味しい!」ってつい言っちゃうとか、笑ったりだとか泣いたりだと感動したりだとか。

そういった部類のものなんです。

 

本当に人のためになることを考えること、それ自体が「善行」になり、次の善行へ繋がっていくんです。

 

自分本位の善行や、歪んだ正義感、人の立場になって考えることが出来ない、そういった人や行為こそが「偽善」なんだと考えます。

 

身体障害者の表記を「障がい」にしたりすることは本当に障害者の方々の願ったことですか。

なんでもかんでも「不謹慎だ!」と人に怒って注意することは本当に被災者が望んだことですか。

ちょっと考えればわかるじゃないですかこんなこと。

 

NHK身体障害者が自分の障害をネタにして笑いとってんだぞ。

「あいつとはもう手を切ったよ」「ああ、それで手がないんだ」「これは元からだよ!」っていう漫才やってんだぞ。

「いや、俺はもう足洗ったんだよ。」「どこの部位洗ったんだよ」「いや足は無いけどさ!」ってツッコミしてるんだぞ。

 

テレビ特集で「身体障害萌えのためのバー」とかやってんだぞ。

そこで働いてる店員さんが「障害をマイナスなように扱ってほしくない」「どうか前向きに見て欲しい」ってコメントしてんだぞ。見てんのかそういうの。

 

偽善を働く人たちに限ってそういうのを嫌悪して見ないんです。実情を知ろうとしないんですよ。

それってもう立派な「悪」だと思いませんか。

 

 

「人の気持ちを考えろ」

そういうことです。